「第2回ウイグル勉強会」配布資料


「第2回ウイグル勉強会」配布資料

東トルキスタン共和国

 シルクロードの舞台であり、西域と呼ばれてきた東トルキスタンは、現在新疆ウイグル自治区と名づけられ、北京政府の統治下にある。ここは諸族混住地域であり、現在は中国の分類によると13民族が住んでいるが、その大部分はテュルク系の人々であり、スンニー派のイスラム教を信仰している。東トルキスタンの大多数を占めてきたのはウイグル人であり、オアシスに定住し農耕や牧畜を生業として平和に暮らしてきた。日本でいえば平安から鎌倉時代にかけてのとき、ウイグル人はウイグル王国やイスラム系のカラハン王朝をつくった。
 1990年代のソ連邦の崩壊により、西トルキスタン(パミール高原よりも西側地域)が独立し、カザフスタンやウズベキスタンなど5カ国が出来た。

 パミール高原の東側地域が東トルキスタンであり、日本の5倍近くの面積にもなる広大な地域がウイグル人の故地である。

 北部にアルタイ山脈、中部に天山山脈、南西部に崑崙山脈があり、これらの山脈によって大きく2つの地域に分けられている。天山山脈より南側はタリム盆地で、その中央部にはタクラマカン砂漠がある。石油、天然ガスをはじめとした鉱物資源、農産物、畜産物に恵まれた天然資源の豊かな地である。

 テュルク系の人々の歴史は、13世紀以降はモンゴルや清朝による支配が長期に及んだが、彼らはむしろ進んでその配下に入り大いに協力してきたのである。名目上はモンゴル族や満州族による支配であったが、実際には都市や農村のそれぞれの地域は宗教貴族であるホジャや、土俗の有力者や官吏であるベクによって統治されていた。19世紀終盤に、制度としてのベク制は廃止されたものの、中国共産党の支配下に入るまでは、土地社会での有力者として存在していたのである。

東ルキスタン・イスラム共和国(1933年~1934年)

 中華民国成立時の新疆政府は、名目上は南京の政府の配下に置かれていたが、実質は漢民族の軍閥によって支配されていた。清朝末期から東トルキスタンへの漢族の大量移住が始まったが、漢族による差別や抑圧、また同化政策によって、テュルク系諸民族の間には不満と怒りとが鬱積しており、きっかけがあれば一気に爆発する状態にまでなっていた。
 騒乱はクムル(ハミ)から始まった。新疆省主席である金樹仁のとった悪政が直接の原因である。清朝に任命されたクムルのウイグル人の王が死去したときに、金樹仁はどさくさにまぎれてその領土を取り上げ、漢人に勝手に分配したのである。
 1931年3月にクムルで起きた蜂起は、バリクル、アクスまで飛び火した。このときに、クムルの王の重臣であったホジャ・ニヤズが、甘粛省にいた回族の軍閥、馬仲英に救援要請を出した。このときから馬仲英は新疆の騒乱に深く関わるようになった。このとき彼は首府ウルムチにまで迫ったが、退けられて甘粛省に撤退した。
 1933年4月、白系ロシア人のクーデターが起きて金樹仁は失脚し、代わりに盛世才が総司令・軍事委員長に任じられた。5月と翌年1月に再び馬仲英がウルムチ近くまで侵攻してくるが、いずれも盛世才によって撃退されている。そして混乱のさ中、1933年2月にホータンでムハンマド・イミン・ブグラの指導の下にウイグル人が蜂起し、4月にはホータン政権が成立、同時に起きたカラシャール、クチャ、アクスの蜂起と合流し、11月12日カシュガルにて「東トルキスタン・イスラム共和国」の独立宣言を出すに至った。大統領にはホジャ・ニヤズ、首相にはサビト・ダ・ムラーが擁立された。この国名で貨幣や新聞も発行された。また青地に三日月と星の東トルキスタン国旗「青天星月旗」も制定された。この国は宗教指導者に率いられた蜂起をきっかけとして成立したが、実際にはソ連カザン地方やオスマン・トルコで行なわれたイスラム新方式教育「ジャディード運動」に影響を受けた商人や知識人層らによって主導されたものであった。
 しかしこの国家は、民族間の対立で連携が崩れたことと、中国国民党の弾圧や旧ソ連の干渉、馬仲英の侵略によって1934年春に終焉を迎えた。
 これら1931年から1934年にかけての反乱と独立運動はいずれも失敗に終わったが、この頃の新疆情勢について日本政府は強い関心を持ち注視していた。国外に亡命した東トルキスタン・イスラム共和国の指導者たちに対して日本政府は積極的に接触し、現地の情報を集めていた。指導者の中には東京まで亡命してきた者もいた。彼らは日本の支援を受けて独立運動を継続しようと考えていたようであるが、日本政府が新疆に対しての関心を失ってしまったため実現しなかった。

東トルキスタン共和国(1944年~1949年)

 東トルキスタン・イスラム共和国終焉からの10年は、新疆省主席となった盛世才が、事実上の独立国であるかのように統治した。そのために盛世才は「新疆王」と呼ばれている。
 盛世才は当初親ソ的に振舞っていたものの、変心して国民党に忠誠を誓うようになった。しかし結局は国民党の圧力によって左遷されることになり、盛世才の「新疆王」としての統治は終わった。この混乱の時である1944年9月に、テュルク系民族らによる「民族解放組織」が、イリ地区ニリカ県でゲリラ活動を始めた。この武装蜂起は瞬く間にグルジャ全域に広がり、11月12日にイリのグルジャ市で「東トルキスタン共和国」の独立を宣言した。主席はイリハン・トレで、閣僚は諸民族から成っていた。最初に蜂起したグループの指導者であった、親ソ派のウイグル人知識人アブドケリム・アバソフが政権内部での有力者であった。
 ソ連軍人の援助を受けた東トルキスタン軍は、イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を完全に掌握した(中国共産党はこれを三区革命と呼ぶ)。 1945年9月にはウルムチの郊外にまで迫ったが、突然進軍を停止した。これは8月のヤルタ会談の際に行われたソ連と国民党との密約で、外蒙古の独立・満州の権益と引き換えに、中国が東トルキスタンを支配するという交換条件が結ばれていたためである。
 武力による独立闘争に代わり、中国政府と東トルキスタン政府の和平交渉が始まり、ソ連の仲介によって、1946年ウルムチの国民党政府と和平協定を締結するに至った。このときに独立にこだわって強硬的であったイリハン・トレ主席はソ連に拉致されることになった。東トルキスタン共和国と国民党とは、お互いの閣僚を出し合って「新疆省連合政府」を成立させた。しかしその後この政府は分裂し、旧東トルキスタン政府の閣僚は全てイリに戻り自治を宣言した。なお、彼らは自前の軍によって領土を保持しており、ほぼ完全な自治をしていたと言ってよい。
 そして1949年、国共内戦を制した人民解放軍が迫る中、ソ連の斡旋によって、イリの自治政府は中国共産党との協議を決定した。8月に北京で開催される会議に参加するために、主席アフメドジャン・カスミをはじめとした政治指導者達は出発したが、その途上ソ連に連れ去られ殺害された。政治指導者を失った東トルキスタンは、1949年12月人民解放軍によって「解放」された。このときに中国共産党の支配下に入ることを拒否して、ムハンマド・イミン・ブグラはパキスタン、ついでトルコに亡命した。また解放軍の進駐後もカザフ族のオスマンや、クムルのヨルバルスなどは抵抗を継続したが、ヨルバルスはチベット経由で台湾に亡命し、オスマンは処刑されたことで武装抵抗はほぼ終息することになった。

中国共産党は「封建的土地所有制」を廃止し、モスクやマザール(聖者廟)が保有していた寄進財産を没収し、イスラム法廷などの「前近代的制度」も廃止された。そして1955年に東トルキスタンは新疆ウイグル自治区となり、現在に至っている。

11月12日は1933年と1944年に成立した2つの東トルキスタン共和国の建国記念日である。在外のウイグル人ら亡命者は、青天星月旗によってこの日を記念し、民主と自由の実現、そして独立を祈っているのである。

東トルキスタン共和国独立宣言時のイリハン・トレ主席の言葉

「いわゆる新疆が中国の一部であるというのは、真っ赤な嘘である。歴史を偽造し、嘘偽りを言う人に思い出してほしいことは、中国の官吏及び帝王たちは、自分の命と土地を保全するために3500キロメートルもの万里の長城をつくり、鷹に狙われた兎のようにそのなかに引き籠っていたという事実である。中国政府の歴史家はこの事実を隠したが、全世界の歴家はこれを知っている。襟を持って太陽の光を隠すことはできるはずはないであろう。(中略)これから中国政府は東トルキスタン領土に対する野望を放棄し、(中略)東トルキスタンの土地を侵略したり、東トルキスタンの民衆を圧迫したりすることをやめてほしい。」

2008年11月15日 第二回ウイグル勉強会に戻る