命を繋いだのはお金で買った「診断書」アメリカに亡命した19歳のウイグル人少女の告白
- 2021/9/5
- ウイグル情勢
クーリエ・ジャポン 2021/9/4
海外への脱出に成功した者は「非常に少ない」
新疆ウイグル自治区を脱出し、父、母、妹の家族4人でアメリカへやってきたのは4年前──。
米誌「アトランティック」にそのように語るのは一家の長女、アセナ・タヒール(19)だ。現在、アメリカの大学に通っている。
渡米以来、同級生からは「アセナって、おばあちゃんみたい」と言われてきた。彼女の喋りや考え方が、周りにそう思わせているようだ。本人はそう言われることは「嫌じゃない」と言う。なぜなら「本当にそう感じることが多いから」。
ウイグル人であるが故に迫害されてきた。あまりに過酷で、不条理な現実を、子供の頃から突きつけられてきた。
彼女のようなイスラム教徒は、中国に約1200万人以上いる。現在、新疆ウイグル自治区の収容施設では、100万人以上のイスラム系民族が拘束されていると推測されている。信仰の自由を奪い、思想教育、さらには強制不妊が行われていると、人権団体は主張している。アメリカやカナダ、オランダ政府は、この中国政府のウイグル人らに対する行いを「集団虐殺」だとして公に避難してきた。
ここ5年ほどで、同自治区から海外への脱出に成功した者は「非常に少ない」。「だからこそ……」と、アセナは自身の経験、そして、ウイグル人についてを発信することに決めた、と話す。
「中国人でもウイグル人のことを理解している人は少ない。多くの人は、教科書に書いてある通り、果物や野菜を育てていて、火の周りで歌ったり踊ったりする楽観的な民族だと思っている」
アセナ(Aséna)という名は「トルコ人に多い名前」だという。「父は私にトルコ系民族であることを覚えていて欲しかった。だから、私にこの名前をつけた」
一家は同自治区のウルムチ市で「2009年、私が8歳になる頃までは」、穏やかに暮らしていたと言う。
その年、中国西部の工場で働いていた漢民族の女性ふたりが「ウイグル男性たちにレイプされた」という噂が広まった。証拠は不充分だったが、これを機に、職場でウイグル人に対するリンチが行われるようになった。ウルムチ市では暴力に反対するデモが発生。デモ自体は平和に行われていたが、参加したウイグル人は中国当局によって暴力的に取り押さえられた。少なくとも197人の死者が出たと、同誌は報じている。
以来、同地区の監視は「徐々に厳しくなっていった」。
「街の中には100メートルごとに中国警察の派出所が配置され、監視カメラの数も増えた」。それに伴い、「ウイグル人は自宅につながるケーブルには、各家庭の会話を記録するチップが埋め込まれているとの噂を本気にするようになった」。アセナの両親はそれを信じていなかったが、それでも「家で政治の話は一切しなくなった」。
そういった緊張は、アセナが通っていた小学校にもあったと言う。
ある日、クラスメイトのひとりが、授業中に突然泣き出した。彼の父親は中国当局によって「スタティ・センター(再教育センター)」と呼ばれる収容所へ連れて行かれたのだと言う。すると、他の生徒たちもすすり泣き始めた。
「なぜなら、誰もが少なくともひとりは収容所に入れられた親戚や家族付き合いをしていた隣人がいたから」
すると、先生は黒板消し用の黒い布を掴んで、教室に設置されたカメラに被せた。そして、生徒たちにこう語りかけたと言う。
「皆が辛い思いをしているのはわかっている。けれど、奴らに涙を見せてはダメだ。君たち10代の若者は、ウイグル人の希望だ。強く、勇敢に生きて欲しい」
それから数週間後、その先生は学校から消えた。のちに、強制収容所に連行されたことがわかった。
命を繋いだのは「偽造診断書」だった
同じ頃、アセナの父親は、中国政府が治療目的での海外への渡航を許可している病気を調べていた。そして、「てんかん」がそのひとつだとわかった。
この頃にはすでに、ウイグル人は中国当局によってパスポートを没収されていた。「父は命の危機を感じていた」
「父は知人のつてで、医師の診断書を集めました」「中国ではお金さえ出せば、このくらいのことは何でもできてしまう」
それから出国が決まるまでの数ヵ月間は「生きた心地がしなかった」。特に「父はバレたら命がなかった。かなり追い詰められていた。精神状態が心配だった」。
出発の日は突然やってきた。大量虐殺から逃れられたとはいえ、「長時間の飛行機の中でぐっすり眠っていたのは、まだ幼かった妹だけ。私たち3人は不安で押しつぶされそうだった」。
だが、アメリカの空港に着くと「不安は消えた」とアセナは言う。「眼に映るすべてがカラフルに見えた」
同級生とは「まったく話が合わなかった」
アセナは現地の高校へ通った。英語はそこで身につけた。
言葉も文化も違う国での学校生活はただでさえ大変だったが、当初、家族の中で唯一英語が話せるようになったアセナは、家族の生活基盤を支えなければならなかった。
両親のために通訳をし、家探しを手伝い、日用品を最も安く手に入れる方法を探した。
同級生とは「まったく話が合わなかった」という。ウイグル人の状況について知る者は誰もいなかった。
「同級生がアメリカの悪口を言うのが信じられなかった。クラスの中でアメリカという国を最も好いていたのは私だったと思う。彼ら(アメリカ人)は、自分たちがどれだけ幸運かをわかっていない」。
彼女にとって、アメリカは「自由をくれた国」である。信仰の自由、発言の自由、ウイグル人らしく生きる自由──。
「クラスの誰もがアメリカの問題を指摘したり、政治について議論することはできた。けれど、彼らは国への感謝の仕方を知らない」
けれど、彼女はじきに「それでもいいのかも」と考えを改めたと話す。
「褒めるも貶すも、考えがあってのこと。私は彼らにアメリカの良さを伝えることができる。意見の違う者同士が考えを共有して、協力することで、私たちはより良い社会を作ることができるから」
「逃げてきた」という罪の意識
アメリカでの生活に少し慣れ始めると、一家は次第に罪悪感に苛まれるようになった。
「自分たちだけ逃げてきた」「他の誰も助けられなかった」「中国に戻るべきではないか」
「まだ何も成し遂げていない私は、自由を享受するに値する人間なのか」。そう考えて、死を考えたこともあったと明かす。
そんな時、母親の妊娠が発覚。「その時、私はすでに18歳。弟ができるなんて、考えもしなかった」。
弟の誕生によって、一家は「罪の意識から少し解放された」と話す。「赤ちゃんの世話をしている時は、赤ちゃんのことしか考えなくなるから」。新たな命に触れることで、死よりも「生」を意識するようになった。
弟はタリムと名付けられた。由来はタリム盆地を流れる内陸河川。アメリカで生まれた彼にも、「ウイグルのルーツを忘れないで欲しい」との思いが込められていると話す。
「弟は大きくなったらきっと、自分のルーツに迷うと思う。そしたら、私が弟を助けなきゃ。ウイグルのことをいろいろ教えてあげなきゃ」
アセナは、他のウイグル人を助けられなかったという罪の意識がなくなった訳ではないと言う。
「痛々しい記憶だけれど、あえて大切に持っておきたい。なぜなら、助けられなかったウイグル人ことを、私は忘れたくないから」