「第二回ウイグル勉強会」報告
今回の勉強会は参加者45人でした。
多くの方に参加頂きありがとうございました。
勉強会の準備に手間取り慌しくなってしまい申し訳ありませんでした。
独立記念行事ということで、日本ウイグル協会のイリハム氏と白石氏からの講演が行なわれました。
本当は専門家の方による講演をお願いしていたのですが、都合が悪いとのことで中止になり、急遽白石氏が講演することになりました。
イリハム・マハムティ「わが祖国 東トルキスタン共和国」
今回の勉強会では20世紀初めに出来た、2つの東トルキスタン共和国について話したい。
この2つの共和国は同じ11月12日が独立記念日であるが、今年は平日にあたっていたので、今日15日に行なうことにした。アメリカウイグル協会など、他の国の組織でも今日、独立記念行事を行なっているところがある。
東トルキスタン共和国、一つ目の国は東トルキスタン・イスラム共和国である。この国が成立したきっかけは1931年1月にクムル(ハミ)で起こったホジャニヤズ・ハジの呼びかけによる農民運動である。これはその時の新疆省主席であった金樹仁の圧政に対しての蜂起であり、瞬く間にトルファン、アクス、クチャまでひろがった。さらに1933年3月にはホータンのムハメッド・イミン・ブグラの蜂起が起き、彼らはカシュガルに来て33年の秋頃に自分達の国を立ち上げた。トルコなどで教育を受けた知識人らの働きもあった。33年11月12日に初めてこの青い旗(青天星月旗)が振られた。またこの国をつくるにあたっては近代国家としての体裁を整えるためにも、国旗や国章、国歌、内閣が作られた。しかし残念なことにこの国は半年しか存続しなかった。この国はトルコとイギリスを重視しており、これらの国と国交を結びたいと思っていたのであるが、この姿勢を面白く思わなかったソ連に支援された親ソ派の盛世才と、また甘粛省からの回族軍閥の馬仲英とによって潰されてしまった。
コムルの反乱を率いたホジャニヤズは大統領になっていながらクチャまでで留まり、カシュガルまでは行かずに、ソ連の指示を受けてこの国を国民党に売り渡してしまった。また初めての共和国の建国ということもあり、閣僚達の経験不足もあったのだろう。ホジャニヤズは国民党と手を結び、新疆省の副主席になった。
それから11年経って、グルジャで「民族解放組織」が立ち上がった。このときのリーダーはアブトキリム・アバソフで、彼は13歳で東トルキスタンに戻ってくるまでソ連で生まれ育った。彼はソ連の後ろ盾があるということを見越して、11月10日に蜂起する予定であったが、11月6日に他のゲリラグループが蜂起し、前倒しで行動を起こした。そして何の因果か、33年の独立宣言の日と同じ、11月12日に独立宣言することになった。国の名前からはイスラムを除き、東トルキスタン共和国とした。
45年8月に東トルキスタン共和国の軍隊が正式に成立したが、このときの装備は全てソ連から与えられた。また東トルキスタン共和国はウイグル人だけでなく、カザフ、キルギス、ウズベク、モンゴル、ロシア人など、漢人以外の全ての民族が手を結んで国を作った。しかし軍隊の指導者はすべてロシア人であった。このときにロシア人が東トルキスタンの人々に約束したのが、33年の時のようなことは起こらない、今回は完璧な東トルキスタン共和国を作るから協力するようにということであり、そのためにも人々はロシア軍人に従ったのである。
その後、国民党と連合政府を作ったが、漢民族の利益ばかりを考えているその政府に見切りをつけて、旧東トルキスタンの閣僚達はグルジャ(イリ)に戻って、東トルキスタン全域の解放を目指すことにした。
実際に掌握できたのはイリ、タルバガタイ、アルタイの3区だけであった。
東トルキスタン共和国軍はウルムチのすぐ傍のマナスまで至って2ヶ月もそこで足止めされた。これはウルムチに居た国民党と交渉中であるから、しばらく待つようにとソ連の軍人達によって言われていたためであった。
49年には共産党軍が東トルキスタンに入ってきて、北京に呼ばれた東トルキスタン共和国指導者達は飛行機事故ということで亡くなり、それからこの国は中国共産党の支配下に入ることになった。55年には新疆ウイグル自治区となり、悲惨な運命を辿ることになってしまった。
この2つの共和国は東トルキスタンの全ての人々に対して、今でも大きな影響力がある。この2つの共和国が失敗した原因は何だったのか、国を再建するためにはどうしたら良いのか、西トルキスタンを始めとした海外に亡命した東トルキスタンの人々は考えている。現在東トルキスタンに居る人々はこの国のことや民族のことを詳しく知ることが出来ず、私自身も日本に来てから自分の民族への誇りを持つことができるようになった。
白石念舟「ウイグルの未来、近代史を踏まえて」
今回の勉強会はもともと学者の方にお願いしたのだが都合が悪くなり、また別のカナダから来たウイグル人にお願いしていたのだが、その方も都合が悪くなった。そのため急遽私が話をすることになった。
今回の話の内容はウイグルの未来を、近代史を踏まえて考えるということである。
ウイグルの未来といえば、独立できるのかということが多くの方の関心があるところだろう。ウイグルの未来について考えるためには、過去の歴史を見返す必要がある。
2つの東トルキスタン共和国の話が出たが、1933年の東トルキスタン・イスラム共和国の政府首脳はインド経由で日本に亡命してきている。44年の東トルキスタン共和国は立派な軍隊を作った。女性の軍隊も作られた。
45年のヤルタ会談のときにソ連が外モンゴルから満州に入ることと、国民党が新疆を支配するという密約が結ばれた。
これ以前の新疆は軍閥が支配していた。44年まで主席だった盛世才は日本に留学に来て陸軍大学も卒業している。だから戦争が上手かった。東トルキスタン共和国が出来るまでの10年、彼は「新疆王」と呼ばれていた。何故新疆王と呼ばれたかというと、中国人が新疆に入るためにはパスポートを必要とするなど、独立した国として支配していたからである。彼は国民党に北京に呼び戻され、その後蒋介石と共に台湾に行くことになった。
新疆を取り巻く環境について、日本、ロシア、中国の関係を見ていかなければならない。近代以降について見ていくことにする。
1840年アヘン戦争に始まり、1860年に欧米列強が本格的にアジア植民地化を画策するようになったが、この当時の清朝は新疆を間接的に支配していた。ウイグル人の指導者240~50人の「ベキ(ベク)」に裁判権や徴税権などを与えて、それぞれの地域を管理させていた。
アロー号事件とそれに続くアロー戦争(第二次アヘン戦争)、太平天国の乱、これに呼応するように稔軍の乱、ムスリムの乱(パンゼーの乱)が起きた。
この当時の日本は明治維新が起きる頃であった。ロマノフ王朝のロシアはクリミア戦争で敗北し、農奴解放などを行い、またカシュガルに領事館を置いた。
このような欧米列強、清朝、日本、ロシアの状況下で、東トルキスタンに関してはほとんどどのような地域であるのかが分かっていなかったため、各国は探険家を送った。
ロシアの南下政策により西トルキスタンの3つの国、ブハラ・ハン国、ヒバ・ハン国、コーカンド・ハン国が潰された。コーカンド・ハン国の将軍ヤクブ・ベクが東トルキスタンを10年程統治したが、漢族の将軍がこの国を再征服した。ロシアやイギリスが情報収集のために人を派遣し、領事館を置き、東トルキスタンでのグレートゲームが幕開けした。ヤクブ・ベクの頃にはロシアはイリ地方を支配していた。またシベリアを東に向けて領土の拡張がなされた。
チベット、ウイグル、モンゴルは独立できるのか未来の話は、時代背景の似ているこの時代を知ることから始めなければならない。
日本からの探検隊は、1902年から3度に渡る東本願寺の大谷探検隊、政府が派遣した日野強らによるものがある。彼らの観察によると、この地域はトルコ系の人々の土地であり、漢人の国ではないと見ていた。諸族混住したこの地域の複雑な歴史というものが分かる。
東トルキスタン共和国は諸族の協力によって建国された。世界ウイグル会議のラビアさんの夫であるハジさんが昨年来日された時に、満州国の資料が欲しいと言っていたが、現代のウイグル人にとっての理想も、満州国の理想であった「五族協和」と同じく、民族の協和であると分かるだろう。
1911年辛亥革命の翌年に中華民国が成立し、1928年に北洋政府から楊増新が新疆に派遣されてきた。彼は良い統治を15年行い、後に暗殺される。1921年には上海で中国共産党が成立した。
清朝が潰れたときに、ソ連はモンゴルと親交を結んだ。またバルカン半島での汎スラブ主義、汎トルコ主義のぶつかり合いのとき、トルコのケマル・パシャ(アタテュルク)がトルコ共和国を成立させた。
楊増新を暗殺したのが金樹仁で、彼は5年間新疆を統治した。この時に東トルキスタンの人々がいよいよ立ち上がった。これは欧米の近代の風が入ってきて、その地域の人々の意識が高まったということもある。このときにはアブドハリクという優れた詩人も現れている。
近代国家とは国民国家であり、自由と人権と民主主義が保障されたものである。中国や北朝鮮は近代国家を経験していない。だから近代国家というものがどのようなものなのかを理解できない。ウイグルも同様で、近代国家を経験していない。ウイグル人には近代国家というものを勉強してもらいたいと思う。
20世紀は戦争の世紀であったが、21世紀は平和になるかと期待を持って迎えられた。中国共産党に求められるのは近代国家へとして生まれ変われるか、自己改革ができるか、自浄作用があるか、これが実現されなければ中国の崩壊と動乱とが起き、21世紀もまた戦争の世紀になるのではないだろうか。
中国共産党による支配はいつまで続くか、1960年代の中ソの国境紛争、アフガニスタンへの進攻のときには、その噂だけで漢人の半分が中国内地に逃げた。漢人は未だにこの土地へ定着していないということを示している。
明治維新前の日本人はアジアの大勢を理解し、どのように行動すべきかを良く理解していた。
現在日本にはウイグル人が7~800人居るが、自分の民族のために働きたいと言って表に出てきたのは23年目にしてイリハムさんが始めてである。ウイグルの未来はどうなるか、どうしたら良いか、これにはこの地域の地政学的なこと、ロシアやインド、パキスタンなどとどのような関係を持つか、軍隊や警察力を整備しなければならないが、その準備は出来るのかという問題にある。中国の崩壊は間もなく起きると言う専門家の方々もいるが、その時に備えてウイグル人がどんな準備が出来るのか、これらの戦略を立てる必要があるだろう。
王進忠氏の話
毛沢東が亡くなった後で、中国の民主化が進むかに見えた。共産党政権の中で始めて中国の民主活動が始まったのが1979年頃の「民主の壁」であった。中心人物は魏京生であった。
魏京生が刑務所に入れられた後、アメリカ中心に1983年に民主化運動の組織「中国民主団結連盟(民連)」が作られた。その中心人物である王炳章は現在中国の刑務所で無期懲役刑で服役中である。彼は捕まる前の1988年に日本に訪問したが、このときから応援してくれる中心的な人が、現在「黒龍会」の田中氏らである。民連は「北京の春」という雑誌を発行している。
天安門のときに中国から逃げた人と海外の在住の人とが立ち上げたもう一つの組織が「民主中国陣線(民陣)」である。1989年12月に日本の支部を作った。当時の会員は500人程度であった。
世界的にも大きなグループが、この民連と民陣である。もともとこの2つは合併するという話も出ていたが、その話が無くなり、現在では3つの大きなグループに分かれてしまった。原因は、中国の民主活動には誰でも加わることができるため、中国共産党はスパイを送り込んでくることにあると見ている。このため民主解放グループは内部での対立が起きやすい。民陣も2つに分裂してしまった。
先月アメリカで会議があったが、一緒に活動するのは遠い話のようである。
ウイグルとの関係は、民連はラビアさんが総裁になる以前の世界ウイグル会議と、3回の対談を行なった。民主化とウイグルなど少数民族問題について、中国に戻った時に少数民族の独立を認めることはできないという立場から、一緒にやることは出来ないという人もいる(民陣のドイツの主席である費良勇など)。しかし、少数民族問題は民主化の問題であると考え、また現在は民主活動家には独立などを決める権利は無い状況であるから、少数民族の人たちと一緒にやろうという人もいる(民連の薛偉など)。民主活動家の中でも色々な立場の人がいる。
私個人の立場でいえば、アメリカのRFAの社員でもあり、立場上言えないこともある。また民連の副主席である立場としては世界ウイグル会議とのつながりもあるし、ウイグルやチベットの人々の活動を応援している。私個人の考えでは、中国の民族政策は間違っていると思っている。東トルキスタン共和国を併合するときの、飛行機事故を装った指導者暗殺というやり方は良くなかった。
中国共産党に問題があるのであり、この政権がなくならなければ民族問題、人権問題、宗教問題などが解決しない。この政権が無くなってから、他の民族とどのようになっていくかを考えなければならない。
ウイグルの活動は、イリハム氏が出てきて応援団も立ち上がった。是非彼を応援して頂きたい。
質疑応答
Q.オリンピック後の東トルキスタンの状況は?
A.締め付けが厳しくなった。民族意識を持ったウイグル人は犯罪者のように扱われる。
外見上は平和な生活が続いているように見えるが、本当に何が起きているかを知ることは難しい。生活のために密告者になっている若者も増えており、ウイグル人同士で疑心暗鬼になっている。
Q.東トルキスタンの独立と言ったときに、どこまでを領土であると考えるのか。
A.東トルキスタン共和国から中国に入る1949年から55年までの間に、東トルキスタン共和国の政府と中国政府と交渉して、新疆ウイグル自治区の境界が決まった。現在は新疆ウイグル自治区となっていない敦煌などもウイグル人が住んでいたが、中国共産党との間で決まった現在の境界が自分達の独立のときの領土であると考えている。
Q.ウイグルでも一人っ子政策が行なわれているがその実体は?
A.イリで26週に入った女性の中絶手術の話が分かって、アメリカのウイグル団体がアメリカ大使館を通じて抗議した。私も月曜に、日本の人権団体に連絡して抗議を入れたいと思う。
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